古代のひしお奈良で誕生

『なら食』研究会が研究用に仕込んだ古代のひしお




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万葉集(巻十六・3829):長意吉麻呂(ながのおきまろ)
《醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見水ク乃煮物》
(意味:醤(ひしほ)と酢をまぜたものに蒜(ひる)をつぶして加え、鯛に付けて食べたい。水葱(なぎ)の羹(あつもの)なんか食べたくない)

歴史はどうしても無機質な暗記の集積として考え、過去の遺跡のように見がちだが、実は過去に生きた"人間ドラマ"の蓄積である。そのドラマをひも解いていくと奈良時代は現在に与えた『食』のターニングポイントがいくつもある。そのなかのひとつに発酵塩蔵物である古代の調味料「醤(ひしお)」があり、日本人の味覚の価値観であり基盤となっている
ところで、奈良県は醤油のルーツといわれる「穀醤(こくびしお)」の充足、発達期の舞台であり、今日まで継続、発展させてきた結び付きの深い史実を具体的に理解し、体感できる県である。


 

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 そこでこの奈良県で古代の調味料「穀醤」を研究・試醸し ていくこと、また奈良県の醤油屋で奈良時代の「穀醤」を造ることは大きな意味を持つと考え、『なら食』研究会はこれまでの研究・試醸結果を手渡すと共に、奈良県醤油工業協同組合へ製造、販売を申し入れた。のち「ひしおの会」を発足し、商品名を「古代ひしお」と銘うって、2010年奈良県醤油工業協同組合が販売することとなった。

 

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2011年9月30日に日本醤油協会より第1回『醤油地域貢献賞』を受賞する。




2016年10月27日奈良新聞創刊70周年記念の奈良遺産70に認定される。


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 次に、その「醤」の成り立ちといきさつを追ってみることにしよう。そこには律令国家と仏教という二つの大きな流れに影響を受けていることに気付く。
 まず、稲作が農業の中心として定着した頃、わが国の風土、四季の寒暖などから食べ物を保存することが絶対的に必要とされた。その必要性が知恵と工夫を生み出していったことは確かなことだろう。これら食物文化の進歩が保存技術を発達させていく中に、おぼろげながらも「醤」の存在を推しはかる事ができる。つまり人々が自然発生的に食物を塩に漬け保存するうちに、発酵・熟成して旨みを持つことを体験的に学んでいき、生活に根付かせていったと推測できる。しかしこの種の「醤」が遺物として残る可能性はきわめて乏しいため、存在を確認することは困難である。

 ところで、世界最古の農業技術書といわれる『斉民要術』という書物に、今の醤油の製造法とよく似た穀物が原料である「穀醤(こくびしお)」の造り方が解説されている。この本は西暦530年から550年頃と推測されているので、ちょうど日本に仏教が伝来してきたときと重なる。
 この時代、わが国は大陸との交流を活発にし影響を強く受けており、おそらく在来の塩蔵物も大陸の「醤」の影響を受けたと考えられる。
現在、日本に残っている文献のなかで最初に「醤」が出てくるのは、わが国で最も古い法令『大宝律令』(701年)である。このなかに宮内省の組織のひとつであり宮中の食事を取り扱う大膳職のなかのひとつに「主醤」という官名があるが、朝廷が使う「醤」の製造や管理を制度化していたとされている。のちに独立して「醤院」という部署となっていく。この史実により、前代までにすでに「醤」が普遍的であったことを示していると解釈できるのではないだろうか。これらの結果に於いて、この時代、大陸から多くの「醤」が伝来し、加えて、それまでの日本にあった在来の塩蔵物とが融合していったと考えても間違いはないのではと考えている。

 また平城京の大膳職跡であると推定される遺跡(奈良市佐紀町)が昭和36年に発見された。ここから木簡が39枚発見され、木簡として初めて重要文化財に指定された。その指定第1号が、奈良時代、平城京での生活において「醤」が欠かせなかったと推測できる『寺請木簡』である。
 これら木簡と、奈良時代は天皇が自ら祭事を行い全国統一なされた史実とを重ね、加えて奈良時代の藤原氏の氏神である春日大社(創建768年)で、春の例祭、申祭が(849年から)行なわれ、平安期の『延喜式』に記載通りに調理されたお供え御棚神饌にも「醤」が用いられていることからも、奈良時代の祭事の折も「醤」が用いられていたと推測するのは強引だろうか。
 加えて数多くの「醤」という文字を残している『正倉院文書』からも、東大寺写経所の僧侶にとって、「醤」は貴重な蛋白源として食されていたということが推測でき、『万葉集』のなかにも「醤」と言う文字を見ることができる。

 これら数多くの史実から、前代に起こったであろう「醤」の制度は、710年平城遷都されたのちも引き継がれ、いよいよ奈良時代、発達期を迎えていったことが容易に推測できる。
 当時の調味料で、塩は別格としても、「醤」もなくてはならない調味料であり、なかでも「穀醤(こくびしお)」は、仏教の殺生禁断という仏教の根幹にかかわる精進を守るための菜食に絶好の味付けとして存在し、こののちの時代も、その時代々の味覚の要求に応じて発展していくことになる。

 このように大化改新から奈良時代末までの150年間ほどで、わが国の前代からの体験から学んだ知恵と、大陸の食文化を取り入れ模倣・摂取するなかで取捨選択しながら、わが国独自の「穀醤」を作り上げてきたと推測でき、どうしてもこの「穀醤」が、現在の醤油の始元(ルーツ)ではないかと思えてくる。 
 その後の平安時代の『延喜式』には具体的な醸造法がないまでも「醤」の原料の配合や製造量が明記されている。また平安京の東市で月に3回、「醤」などを売る店が51軒あったことも記述されている(奈良から売りに行っていたらしい)。この時代に編纂された日本最古の漢和辞典『和名抄』(903年)にも、「醤」の和名を「比之保(ひしお)」と記されるまでになっていく。
 当時の宮中貴族の饗宴では高杯(たかつき)と呼ばれる置き台に皿をいくつか置いて食材を盛り付けている。料理は単品で鯛、鯉、鱒、蛸、雉などが皿に盛られ、手元には4種類の調味料「酢、塩、醤、酒」が小さな器「四種器(よぐさもの)」に盛られて食膳に置かれ、各人が好みの味付けをして食していたことがわかっている。

 更に時代は下り、室町時代中期から江戸時代初期までの140年間、興福寺の多聞院という子院の僧侶達が、代々『多聞院日記』を書きつづけてきたその中にも、多くの「醤」の記述がある。
室町時代は、武家が公家社会のしきたりを次第に吸収し、礼法が確立していった時代で、禅宗を中心に起こった武家文化は、茶道や本膳料理が武家社会の礼法(主従関係の確認の場)として生まれ、四種器の調味料の他に味噌や醤油、味醂、といった現代のものに近い調味料なども使われるようになったことがわかっている。ただ当時はまだまだ貴族階級や武家社会でしか使われない高級な調味料であったようだ。
 安土桃山時代(1597年)日常用語辞典である『易林本節用集』に「醤油」の文字が始めて出てくる。料理に使う調味料として現在の「醤油」にかなりちかい液状にまで工夫され、調理法の発達を促すにまでに至った。

 現在の「醤油」に近いこの調味料は、町人を中心とする貨幣経済が発達し、物資の流通も活発化してくると、徐々に庶民にまで普及するようになっていったのである。

 このように、たとえ大陸での風土条件で生まれた伝統的嗜好品である『醤』であっても、日本人の経験により培われた知識と技術とで、わが国固有の発酵調味料に変化、進展させてきたのである。なかでも穀物を原料とした「穀醤」は文献にあらわれた『大宝律令』を初めとすれば「醤油」へと変化するまで約900年続いたことになる。その後の「醤油」にあっては、まだ400年余りで、いかに「醤」が現在の日本人の味覚形成に影響を与えたかがわかる。つまり「醤」は、古代から現在へと日本人が発展させながら繋げてきた調味料である。
 このように食べ物の変遷流動は、歴史の流れを端的に表現し、時代の一面を推し量ることができる。

文責:『なら食』研究会