奈良の食魅ー奈良新聞掲載ー

ー自然と歴史を食卓へー

 物を食べるという日常的な行為を文化の出発点とすると、その変遷流動は時代のニーズに対応し、順応しながら変化していき、国々(その地域々)の固有の食文化を作っていく生活史そのものであることが解る。

 さて奈良は味覚に加え、それに伴う歴史の味わいも重ねて味わって頂ける地です。味覚がその人の履歴であるように、奈良の風景一つひとつが自らの履歴で味わえる味を持っていて、心の満足も同時に得られる地と考えている。
これから毎月1回綴る『奈良の食魅-自然と歴史を食卓へ-』で、ご理解して頂けると幸いです。   
          👉毎月第一水曜日奈良新聞掲載中

【古代ひしお

 現在、先進諸国が飽食の時代に突入している中で、日本食が世界的に見直され、日本食ブームが起こっている。なかでも日本人の味覚に染みわたる醤油は世界の人々に和食の文化と共に認められている。しかし日本人が暮らしに溶け込んでいる醤油の価値を改めて確認するのは難しい。

 さて、稲作が農業の中心として定着した頃、日本の風土、四季の寒暖などから食べ物を保存することが絶対的に必要とされ、その必要性が知恵と工夫を生み出していくことになる。人々は自然発生的に食物を塩に漬け保存するうちに、発酵・熟成して旨みを持つことを体験的に学んできた。その長い経験と、大豆は生で食べると消化不良をおこすので、加熱するなどの加工技術で、保存技術を発達させてきた。

 醤油の歴史を紐解くと、701年に制定された日本ではじめての法律『大宝律令』には、いろいろな醤を造ったり管理したりしたと記されている。醸成させながら繋いできた主に大豆を使った穀醤は、鎌倉・室町時代に入ると、その伝統は主に寺院に受け継がれていく。稲と大豆は見事な共生関係を作り、穀醤は醸造条件を整えながら、約900年余り続いた。室町時代中頃には、ほぼ現在の醤油に近いものが造られるようになり、日本独自の醤油製法は、江戸時代の半ば頃には出来上がっていたと云われている。醤から現在の醤油へと日本人の味覚形成に大きな影響を与えてきた。

 そこで、醤油の価値を再確認してもらうには、奈良県が穀醤の充足、発達期の舞台であったことから、奈良県で奈良時代の穀醤を造ることに大きな意味を持つと考えた。その数年後「はじまり奈良」にふさわしい穀醤を、奈良県の醤油屋が造り、2010年の1月奈良県醤油工業協同組合が「古代ひしお」と銘打って販売することになった。時を同じく奈良の地に平城京が誕生してから、連綿と続き1300年を迎えたことを記念して 2010年の幕開けとともに「平城遷都1300年祭」がスタートした。まさにその年に、過去・現在・未来の日本を考えることを目的とした事業にふさわしい、古代の穀醤が販売できたわけだ。 一般に醤油は16%~18%の塩分濃度で仕込まれるが、「古代ひしお」は11.7%になる。旨味成分を多く含み、刺身やステーキ、またチーズなど油分との相性がとりわけ良い。

 原料の発酵によって複雑なうま味と風味を持ち、適度な塩分によってうま味が増強される醤は(醤油もしかり)は、これから益々、料理の国境を取り払う存在になるだろう。

『なら食』研究会代表・横井啓子