奈良の食魅ー奈良新聞掲載ー

ー自然と歴史を食卓へー

 物を食べるという日常的な行為を文化の出発点とすると、その変遷流動は時代のニーズに対応し、順応しながら変化していき、国々(その地域々)の固有の食文化を作っていく生活史そのものであることが解る。

 さて奈良は味覚に加え、それに伴う歴史の味わいも重ねて味わって頂ける地です。味覚がその人の履歴であるように、奈良の風景一つひとつが自らの履歴で味わえる味を持っていて、心の満足も同時に得られる地と考えている。
これから毎月1回綴る『奈良の食魅-自然と歴史を食卓へ-』で、ご理解して頂けると幸いです。   
          👉毎月第一水曜日奈良新聞掲載中

【米飴】

 現代は「健康ブーム」と言われるほど健康への関心が高いが、江戸時代中期にも庶民の間で健康ブームが起こった。当時「江戸患い」と言われた脚気や高血圧になる人も多く、貝原益軒の『養生訓』は健康法の指南書として大ヒットし、また末期には体の構造や働きをコミカルに描いた歌川国貞画『飲食養生鑑(かがみ)』の錦絵が人気を博すなど、人々は健康に留意していた。

さて、でんぷん(炭水化物)が殆どの生物のエネルギー源となり、そのおかげで人類が発展してきたことは間違いない。
主食である米に含まれるでんぷんを麦芽で糖化させた米飴が、なぜ体に穏やかで優しいかは、体内に入ると小腸まで段階的に分解、吸収され、エネルギー源となるからと理解している。また甘味料や調味料に留まらず、漢方では膠飴(こうい)という、胃腸を養い滋養効果のある生薬として利用もしてきた。

その歴史は古く、奈良時代の『正倉院文書』に読経供養料として「阿米(あめ)」を作るための米が献上された記録や、『食物下帳』には白米を原料として煮糖することが記されていることから、当時、米に含まれるでんぷんを、米を発芽させた「米もやし」で糖化させ飴を作っていたといえる。『和名抄』にも「「飴は米もやしの煎なり」とあるが、『延喜式』には「糖料、糯米一石、萌(もやし)小麦二斗、得三斗七升」と記されていることから、平安時代初期から中期頃は米もやし以外に麦もやしも使っていたようだ。
ところが中期以降になると、『箋註和名抄』に「今の俗、飴を作るに麦もやしを用ふ。米もやしを用ひず」とあり、江戸時代『和漢三才図会』には「麦もやし、あるいは穀芽同諸米を用いる」と記されているように、徐々に米もやしより糖化酵素の量が多い麦もやしを使うようになる。明治時代に入ると発芽大麦の抽出液が、でんぷんを効率よく分解することを見出し、発芽させた大麦すなわち「麦芽」を使用し今日に至っている。

何れにせよ古代から穀芽の酵素力を使って多糖類でんぷんを糖化させていたことは明らかで、貴重な甘味料、栄養源として人々の生活になくてはならないものであった。

砂糖が室町時代に輸入され、江戸時代中期には国産化が図られ、明治時代中期には調味料として一般に普及してきた歴史があり、また現在では日常的に人工甘味料が溢れかえっている中、米のでんぷんを麦芽で糖化させた米飴の製法・技術は次の世代へと継承して行かねばなりません。

『なら食』研究会代表・横井啓子